久原漁港にある小島。なぜ女郎島と呼ばれたか?
女郎島にはふたつの伝説が
向津具半島の入り口から2km、この地にある久原漁港の今から60数年前の貴重な写真です。
久原漁港の詳細に関しては以下の記事を読んでくださいね。
漁港入り口にあるのが、女郎島。現在の姿と比べると、頂上に四角い岩があり、松の木が生えていたこと、そして独立した島だったことがわかります。形の整った姿が偲ばれます。女郎島とは現代にはふさわしくない言葉であるため、今では地元の人たちが小島と呼ぶことは以前の記事にも書きましたが、なぜ女郎島と呼ばれたのか?二つの伝説が残っていますので、ご紹介します。
1.地下上申(じげじょうしん)という古文書によると
久原にいた放蕩者が上方から女郎を連れて帰ったが、家に置くと家族がやかましいので、島に隠していた。そして、家の者の目を盗んで食事をはこび、つかの間の逢瀬を楽しんでいた。しかしそれも思いのままにならず、とうとう女郎は餓死した、という悲恋物語によって名付けたとの記録があります
2. 口伝(言い伝え)によると
壇の浦合戦に敗れた若い武将、藤原民部秀重は、上臈を連れて、久原に逃れてきた。しかし源氏の追っ手が迫ってきたので、「三年たったらここへ帰って来る」と言い残し、海路をどこともなく逃げて行った。上臈は、毎日島の上に上がっては沖を眺め、秀重の帰りを待ちわびていた。上臈は秀重に寄せる恋慕の情にみを焦がしつつ、この島で亡くなったので、女郎島と呼ぶようになった。 注:女郎、上臈いずれも「じょろう」と読みます。いわゆる遊女(売春婦)のことで、江戸時代まで続いた女性の生業の一つでした。上臈は中世までの書き方で、後に女郎と書かれるようになりました。
悲恋物語にふさわしい小さな久原漁港
昔から小さな漁港であっただけに、このような 言い伝えが残るのもうなずけますね。
次回も向津具半島に残る言い伝えを取り上げたいと思います。