古狐は最果てに居り候

日本の山口県長門市油谷にある向津具産直市「ここや」です。向津具と書いて「むかつく」と読みます。この地は本州の西北端にあり、美しい自然と古代からの伝説が溢れる見どころ満載の場所です。「ここや」は地元の農産物や海産物を販売しながら、向津具の観光案内も行っています。

昔の米作りは大変だった。その中で、牛は大事な労働力であった。

蓑笠(みのかさ)姿の貴重な写真

戦前(1940年)ごろまで、日本の農民は、労働のほとんどを人力で行っていました。雨よけの衣類などはなく、すべて手作りの、蓑(みの)笠(かさ)などを身に付けて農作業をしました。蓑はワラやカヤ製、笠は竹ひごを編んだものでした。写真の人物は右手でクワをかつぎ、左手に笠を持っています。着心地もよさそうにはとても見えません。農民はその中で、日々重労働に耐えて生活していました。

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写真の年代は1950年頃と思われます。ワラ草履ではなく、ゴム草履をはいています。

米作りはまず、田んぼをすき起こすことから始まる。

写真の農機具は、筆者宅の農業用倉庫にあるもので、唐鋤(からすき)と言います。この農具を牛にひかせて、田んぼをすき起こしました。木製ですが、赤丸で示した部分だけが厚い鉄板で造られていて、この部分が、土を掘り起こす構造になっています。1960年頃、耕運機が普及するまでは主流の道具でした。

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唐鋤を、牛にひかせて田んぼのすき起こし

唐鋤の長さは1mほど、重さは20kgほどで、操作に強い力はいりません。ただし、片手で手綱を握って牛を操り、片手で唐鋤を操作しなくてはなりません。牛を手なづけ、熟練した技術が必要な仕事です。筆者も子供の頃、手ほどきをうけたことがありますが、ほとんど操作できなかった記憶があります。また、牛にはもう一つ、大事な役目があります。牛糞です。これが化成肥料のなかった時代、大変重要な肥料になりました。現代は「肉牛」の時代ですが、昔は「益牛」だったのです。

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この絵を見ても重労働であることがわかりますね。

田んぼの代かきが終わったら、田植え。

筆者が子供の頃には田植え定規が普及していました。木枠の四隅に二股のくさびを取り付けたもので、赤い印に添って苗を植え付けました。幅1.9m奥行43cmの大きさです。

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なぜ定規を使うのか?

この定規が開発されるまでは、田んぼの端から端まで一本の綱を張って、その綱に合わせてまっすぐに植えていました。しかしこの方法も熟練者でなければ、正確に、早く、まっすぐには植えられません。定規はウラ、オモテ兼用になっており、クサビで土の中に、しっかり固定されるため、裏返しては後ずさりしても全くねじれません。初心者でもすぐに覚えられます。筆者もこの仕事はスムーズに覚えることができました。

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両側の角材は回転するように造られています。クサビは常に下向きにできます。

小雨が降る中でも、田植えは続けられました

一度育て始めた苗は、成長をやめません。植え時は限られています。少々の雨の中でも、部落総出で蓑、笠姿で田植えは行われました。

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定規は、ひとり一枠ごとに使いました。

現代は科学技術の発達により、農機具 、生産技術ともに高度になり、過酷な労働は必要なくなりました。ただ現代の農業の姿は、先代たちが、営々として築き上げてきた労力の賜物です。農業の歴史を振り返るのも大事なことだと思います。