古狐は最果てに居り候

日本の山口県長門市油谷にある向津具産直市「ここや」です。向津具と書いて「むかつく」と読みます。この地は本州の西北端にあり、美しい自然と古代からの伝説が溢れる見どころ満載の場所です。「ここや」は地元の農産物や海産物を販売しながら、向津具の観光案内も行っています。

戦時中、飛行場竣工式にて、毅然とした婦人たちの姿。

大浦水上飛行機基地の場所は?

向津具半島にある大浦漁港の西端から、さらに800m西に行ったところに、太平洋戦争末期に造られた、「水上飛行機基地」の跡があります。

当時を知る男性の談話。

現在85歳で、大浦漁港から3km東の地区に住む、男性の話です。
「私は、昭和20年(1945年)当時小学四年生でした。この年は太平洋戦争終戦の年です。日本の飛行機が、私の家の上空を、爆音を響かせながら飛んで行ったのをよく憶えています。学校の先生の話では、『アメリカとの本土決戦に備えて、現在残っている飛行機をはじめとする兵器を温存するために大浦に飛行場を造った』と教えられました。大変なことになるな、と子供心に感じました。飛行機が複葉機で、二人の兵隊さんが乗っているのは、はっきりとわかりました。ただ飛行機は、昭和20年以前から飛んでいたようにも思いますが、古い記憶です。年代については、確かなことはわかりません。」
フリー百科事典『ウィキペディア』に「山陰海軍航空隊」の記述があります。
引用しますと、この航空隊は昭和20年5月5日に編成されたとあります。目的は、沖縄戦が不利な状況にあるため本土決戦に備えて、機体温存と実践訓練のため山陰各地に飛行基地を設置したとあり、大浦基地もそのひとつだったようです。
男性の話とすべて一致します。

竣工式での婦人たちの毅然とした姿。

もし竣工式が昭和20年に行なわれたとすると、当時このような式典には必ず参列するはずの、青壮年の姿が見られないことにうなずけます。そのほとんどは、戦地にあるか、軍需関係の任務にあったはずです。家庭を守る婦人たちが、代役を務めたのでしょう。当時、一般家庭は耐乏生活の真っ只中で、本当に苦しい状況だったとおもわれます。それでもきちんと正装をして、毅然とした姿勢で写真におさまっています。前列にいる少女は精一杯に着飾ってもらったのでしょう。ひときわ目につきます。この写真が海軍によって強制的に撮影されたものでないことは、一番右端に映る人と、左上の機上の人、二人のパイロットらしき人物が、リラックスした姿勢でいることがそれを証明しています。
この写真が本当に昭和20年に撮影されたものなら、婦人たちの姿勢には、なおさら驚かされます。この年8月15日に、日本は敗戦したのですから。
向津具という片田舎にあっても、人々が戦時中という苦しいときに、強制されなくても規律を守り、清潔で毅然とした態度を取っていたことには感心させられます。

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飛行機の下部に、二つの浮舟(フロート)が付いているのが、わかります。

飛行場跡地は廃墟のありさま。

残念ながら歴史の遺物も、今では廃墟同然になっています。長さは15m、幅は8mほどのコンクリート製の滑走路らしきものが残っていますが、すでに一部は壊れており、ちょっとひどい状況になっています。

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西側から撮影した滑走路。800m先が大浦漁港。

こちらは滑走路の一番奥から、油谷湾を望んだ写真です。飛行機は、この位置から滑走を開始したのでしょう。

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残念なことに、黒い漁網が放置されています。

もう一枚は、竣工式の行なわれたと思われる付近の写真です。ここは草木に覆われてしまいました。

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ウッドデッキ風の建造物は、平成時代に造られたものです。

この基地跡は、貴重な遺跡です。戦時中の歴史を後世に伝えるためにも、整備しておきたいものです。