古狐は最果てに居り候

日本の山口県長門市油谷にある向津具産直市「ここや」です。向津具と書いて「むかつく」と読みます。この地は本州の西北端にあり、美しい自然と古代からの伝説が溢れる見どころ満載の場所です。「ここや」は地元の農産物や海産物を販売しながら、向津具の観光案内も行っています。

かつての漁港の賑わいを偲ばせる「分校跡」の石碑

こんなところに分校が?名残りをとどめる久原分校之跡の石碑

久原分校は漁港から歩いて15分の小高い丘の狭い土地にありました。向津具小学校久原分校が正式な名称で、昭和5年(1930年)に設立され、昭和44年(1969年)に閉校になるまでの40年間、久原地区と隣の2地区の小学1年生から3年生までがこの分校で学びました。久原漁港が賑わい、活力があったころ生徒数は30人を超えるほどでした。しかし戦後の高度成長期の始まりとともに、若者の都会への流出が続いたことで、生徒数が減少していき、ついには存続出来なくなったわけです。現在は校舎もなく校庭も農地になって、当時分校があったことの証しはこの石碑だけになりました。今この地は個人の私有地になっており、外郭には有害鳥獣を防御するための網が張られているため、所有者の許可なく立ち入ることはできません。ただご本人の好意により、石碑廻りはいつも、綺麗に整地されています。

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石碑には久原分校之跡と刻まれています。

なぜ分校が必要だったの?地図を見ればそのわけに納得します。

向津具半島の地図を見ると、久原漁港から左斜め上に長門市立向津具小と書かれた地点がありますね。ここが本校になります。久原分校は向津具小学校の分校になるわけで、分校から本校まで約4km、6~7歳の子供が歩くとほぼ1時間の距離です。これでは児童への負担が大きすぎるため、3年生までは分校で学ばせることにして、4年生から本校に通うことにしたわけです。昭和20年代前半、この地には路線バスもありませんでした。つまり、徒歩で通学するしかなかったわけです。当時の教育関係者の苦労が思われますね。

 

小学3年生までが通った分校。それは小さな小さな分校でした。

分校の敷地は東西に40m、南北にも40mしかありません。ここに校舎と校庭兼運動場がありました。校舎も当然小さなもので、教室は1つしかなく、何と先生も1人でした。つまり1人の先生が、1年生から3年生までを同時に一人で教えていたわけで、現代では到底考えられない教育方法ですね。この校舎で学んだ「ここや店長」は先生が他の学年生を教えているときは、自習させられたことを覚えています。それでも楽しかった思い出しか残っていません。 

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分校の敷地跡。ここに校舎と運動場がありました。

 分校の跡地は県道357線沿いにあります。しかしここも、久原漁港と同じく、初めて訪れる人はまず気づきません。次回はまず所在地から紹介します。