青銅剣は明治34年(1901年)に発見された。
向津具半島、この地に一か所だけある「本郷平野」の東端に、安佐(あんさ)地区があります。ここの王屋敷跡と呼ばれる場所から、明治34年に弥生時代の青銅剣が発見されました。
後に、吉野ケ里遺跡 で同形の剣が出土した。
明治34年に発見された剣の名称は、「有柄細形銅剣」(ゆうへいほそがたどうけん)。後に弥生時代のものと断定され、国の重要文化財に指定されました。全長44cm、出土時には7個に分断していたそうです。平成元年に吉野ケ里で出土したものと、同型の剣が、なぜ向津具半島という、本州の最西北端にあったのか?今もって解明されていません。ただ間違いないのは、向津具半島には弥生時代に地域社会が形成されて、権威のある首長が存在していたと考えられることです。
発見された場所の名が、王屋敷とは?
向津具半島には、平家の落武者伝説があり、数多くの五輪塔が残されています。それら一つ一つに、いかにも武将らしい名前が付けられて伝説の真実性を高めています。その中のひとつが、王屋敷遺跡の五輪塔です。伝説によると、壇の浦合戦で入水して亡くなったはずの安徳天皇が、実は生き延びて、この地にかくまわれて密かに暮らしたとなっています。そこから王屋敷の名が付いたらしいのですが、かなり無理のある話のように思われます。
青銅剣はこの場所から発見されたために、この伝説とのつながりを考えてしまいがちですが、弥生時代と平安時代の末期では時代がかけ離れています。場所が偶然に同じだっただけで、何の関連性もありません。
ただ向津具半島には、多くの古墳も遺跡として残っています。弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代と続く日本の歴史の中で、この地にも確とした歴史が存在していたことがわかりますね。
王屋敷跡の全景です。近年、土砂崩れがあり、その後土地の区画整理事業があったため、青銅剣の出土場所はわかりません。
王屋敷跡の端にある、平家一族のものと思われる五輪塔の跡です。地名の由来はここから出ているのかも知れません。
王屋敷跡の近くにある、南方古墳の写真です。弥生時代から始まる、地域社会が きちんと形成されていたことの証です。
本州最西北端、現代では最果ての地のイメージがある向津具半島ですが、弥生時代に始まる歴史と文化を持っていたことを改めて認識させられました。古墳についてはまた別の機会に紹介します。