古狐は最果てに居り候

日本の山口県長門市油谷にある向津具産直市「ここや」です。向津具と書いて「むかつく」と読みます。この地は本州の西北端にあり、美しい自然と古代からの伝説が溢れる見どころ満載の場所です。「ここや」は地元の農産物や海産物を販売しながら、向津具の観光案内も行っています。

油谷湾では、連絡船が運航されていた!

連絡船が、一番大事な 交通機関だった。

今から40年ほど前までは、「大浦、久津港」から対岸の粟野まで、油谷湾を縦断する航路で「渡海船(とかいせん)」が運行されていました(とかいせんとは向津具での連絡船の呼び方)。向津具半島西部の人々には、山陰本線の最寄り駅まで行くのに、「渡海船」が一番便利な乗り物でした。地図で見る通り、久津から人丸駅まで路線バスで行くと、片道16km、約1時間かかりました。(黄色い線が県道)これに対して、旅客船で行くと、「大浦、久津」を経由しても対岸の「粟野港」(赤い線が航路)まで片道5kmあまり、40分で行き着きました

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油谷町史(旧油谷町発行)掲載の地図に加筆しました。

貴重な渡海船初期の映像。

渡海船は大正9年に運行を開始しました(1920年)。この写真は、戦後間もなく撮影されたものだと思われます(1947年頃?)。70年も前の映像です。連絡船としては、現代では考えられない造りです。戦後間もない、生活物資にも事欠く時代です。安全基準を考える余裕は、物質的にも、経済的にもなかったのでしょう。生活のためやむを得ない時代の一コマです。

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撮影時期は夏だと思われます。日除け用の幌がかけられています。

次は、昭和27年(1952年)に就航した「ひびき丸」の運行中の写真です。出勤あるいは通学時間帯に撮影されたものでしょう。かなりの人数が乗船しようとしています。この船は木造でした。

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まだまだ現代の基準には、程遠い造りの船ですね。

最後の代は立派なFRP船になった。

昭和51年(1976年)に就航した、第二江の島丸です。この船はFRP製でした。ここまで来ると、現代の基準に合致した造りになっています。ところが、残念ながらそれからわずか19年後の平成7年(1995年)に渡海船の運行は廃止になりました。理由は陸上交通の発達、それが全てです。時代が進み、道路の整備が進み、路線バスの充実、マイカーの普及と続きます。それに伴って、渡海船利用者が激減して行き、運行廃止となったわけです。
ひびき丸と、第二江の島丸の間には、「初代江の島丸」が運航していましたが、その写真は確認できませんでした。初代江の島丸時代が、利用客数が最も多く、年間16万人に達した年もありました。

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運行終了に思いを込めた、横断幕が見られます。

第二江の島は現在、個人の所有物となっています。船としてではなく、宿泊施設としてしばらく運営されました。今も、船としての面影をとどめた姿が見られます。

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現在は使用されていません。

渡海船 の歴史を紹介しました。向津具半島という田舎でも、戦後の歴史が急速に進んだことがわかりますね。